【画像】絶滅してまった動物挙げてく
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1398576114
1: 名無しさん 2014/04/27(日)14:21:54 ID:5WWTma7vc
どうも
絶滅寸前の動物スレを立てた者です
今回は絶滅してまった動物を挙げていきたいと思います
よろしくお願いします
■ターバン
ターパンは有史以前よりフランスやスペインの南部からロシアの東部、中央部にかけて分布している。
ラスコーやアルタミラの壁画に描かれた動物はターパンだと考えられており、
またロシア南部では紀元前3000年頃のスキタイの遊牧民がターパンを家畜化していた痕跡が残っている。
野生のターパンは1875年から1890年の間に絶滅したと考えられている。
最後の1頭のオスは、捕獲の最中の事故で死亡した。
飼育下の最後のターパンは1909年にロシアの動物園で死亡した。
ポーランド政府によって、Bia?owie?aの森林地帯のターパンの子孫を保護する努力がなされたが、
これらの子孫はPolish primitive horseとして今日でも知られている。
■スチーフンイワサザイ
スズメ目イワサザイ科に属する鳥で、
ニュージーランドの北島と南島の間に位置するスティーヴンズ島に生息していたが、
1894年に絶滅した。
全長10cm程度で体は茶色、現生のスズメ目で唯一の飛べない鳥だった。
スティーブンズ島への人間の居住は、灯台の建設が始まった1892年のことである。
この後、3人の灯台守とその家族がこの島に住むようになった。
このころすでにこの島の “ミソサザイ” についての言及が建設労働者によってなされている。
灯台が稼動し始めた1894年、飼い猫」が捕まえてきた見慣れない鳥に興味を持った灯台守の一人デイヴィッド・ライオール がその鳥を鳥類学者のウォルター・ブラー に送ったことによってこの鳥が新種と確認されその存在が知られることになった。
猫は合計で15~16羽ほどを捕まえてきたが、それを最後にスチーフンイワサザイの姿を見た者はおらず、
学者による調査も行われたが結局見つからず、猫1匹によって絶滅させられたものとされている。
ほとんど天敵もいなかったスティーブンズ島では、空を飛べなかったことでネコに簡単につかまってしまったと考えられている。
発見と同時に絶滅したこともあり、生態に至っては全く不明である。
これは結構有名だな
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■ブルドッグネズミ
インドネシア・ジャワ島の南方300kmに位置するオーストラリア領のクリスマス島に生息していたが、
すでに絶滅した。
体色は茶色で、体長25cm前後。尾は16cm前後で他種に比べやや短い。
背には厚さ2cmgほどもある脂肪層があった。
食物は果実、種子、樹皮、芽など。生息地は島の中でも標高の高い所にある森の奥深くであった。
木に登ったりはせず、原生林内の木の根の隙間や空洞となった倒木の下などに巣穴を掘り、
少数の群れで生活していた。昼光の下では半分寝呆けたように見え、
名前のイメージとは異なり、おとなしい性質だったという。
19世紀、クリスマス島でリン鉱石が発見されると、
人々の島への移住が盛んになり、人間とともに流入したクマネズミやドブネズミとの競合や、
それらのネズミが持ち込んだ病気の流行などにより絶滅した。
最後の記録は1903年のものだという。
絶滅に関しては、人間の直接的な関与はなかったとされている。
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■バルバドスアライグマ
巣は樹洞に作り、森林や茂みを好んで行動していた。
18世紀中期にはすでに、バルバドスアライグマは農産物に被害を与える害獣として駆除の対象になっていた。
農地開発によってバルバドスアライグマの生息地は減少していった。
人間のゴミを漁っていたともいうが、生息地減少の影響に伴う悪循環の一つと考えられる。
そして、19世紀以降の毛皮産業の発展や、ペットとしてのアライグマの人気によって、
バルバドスアライグマは乱獲され減少の一途をたどった。
1970年に絶滅したとされている。
■バッドランドオオツノヒツジ
バッドランドオオツノヒツジの名は、バッドランドとよばれる岩山に住んでいたことによる。
巨体のわりに敏捷で、岩山や崖を平然と行動した。
オスの頭には下向きに丸くカーブする大きな角が二本あった。
先住民スー族は、肉と角を目当てにオオツノヒツジを捕まえていたが、頭に角をつけて接近するという方式によるもので、捕獲数もわずかだった。
しかしヨーロッパ人の進出以降は事情が変わった。
他のシカやレイヨウ(絶滅したものではションブルクジカやポルトガルアイベックスなど)と同様に、見事な角が部屋飾りとして人気を集めたのである。
ハンターが盛んにオオツノヒツジ狩りを行い、新たな生息地を捜しても追いつかなくなった。
人間に撃たれた最後のバッドランドオオツノヒツジは、
1905年にノースダコタで撃たれたものとされている。
その後も1910年、あるいは1925年頃まで生存していたという説もある。
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■ケープアカハーテビースト
南アフリカ・ケープ地方に生息していた。
角の大きさは70cmほど。
体色は赤みを帯びた褐色で、頭と脚に黒い斑点があり、尾は黒かった。
ボーア人の入植とともに、ケープアカハーテビーストの数は減り始めた。
毛皮や肉を目当てにされ、あるいはキタハーテビーストと同じようになぜかウシの伝染病を持っていると誤解されたりして、狩猟の対象になったためである。
1883年までには、野生のものは見られなくなっていたという。
そして1940年、ケープアカハーテビーストの最後の生き残りを保護していた一家が倒産し、
当時55頭いたというケープアカハーテビーストは全て射殺された。
おそらく毛皮などを売って債権の足しにするつもりだったのであろうし、
別にパンダやドードーではないから生きたまま売った方が高いようには見えなかったのであろう。
ともかく、ケープアカハーテビーストはこれを最後に絶滅した。
■バリトラ
インドネシアのバリ島だけに生息していた。
大きさについて記録されているのはメスだけで、全長211cm、
トラの中では最も小さな亜種とされる。外見はジャワトラによく似ていた。
毛皮の利用や娯楽のために狩猟の対象となり、1940年ごろに絶滅した。
■ドードー
マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた。
存在が報告されてから83年で目撃例が途絶え絶滅した。
ドードー鳥と呼ばれることもある。
大航海時代初期の1507年にポルトガル人によって生息地のマスカリン諸島が発見された。
1598年に8隻の艦隊を率いて航海探検を行ったオランダ人ファン・ネック提督がモーリシャス島に寄港し、
出版された航海日誌によって初めてドードーの存在が公式に報告された。
食用に捕獲したものの煮込むと肉が硬くなるので船員達はドードーを「ヴァルクフォーゲル」(嫌な鳥)と呼んでいたが、続行した第二次探検隊はドードーの肉を保存用の食糧として塩漬けにするなど重宝した。
以降は入植者による成鳥の捕食が常態化し、彼等が持ち込んだイヌやブタ、ネズミにより雛や卵が捕食された。
空を飛べず地上をよたよた歩く、警戒心が薄い、巣を地上に作る、など外来の捕食者にとって都合の良い条件が揃っていた。
ドードーは森林の開発による生息地の減少、そして乱獲と従来モーリシャス島に存在しなかった人間が持ち込んだ天敵により急速に個体数が減少した。
オランダ・イギリス・イタリア・ドイツとヨーロッパ各地で見世物にされていた個体はすべて死に絶え、
野生のドードーは1681年のイギリス人ベンジャミン・ハリーの目撃を最後に姿を消し、絶滅した。
■エピオルニス
マダガスカル島に17世紀頃まで生息していたと考えられている。
かつては無人島であったマダガスカル島で独自の進化を遂げ繁栄していたが、
2000年ほど前からマダガスカル島に人間が移住・生活するようになると、
狩猟や森林の伐採など環境の変化によって生息数が急速に減少し、最終的に絶滅してしまった。
ヨーロッパ人がマダガスカル島に本格的に訪れるようになった17世紀には既に絶滅していたと言われるが、
1840年頃まで生存していたとする説もある。
■ハワイクイナ
ハワイ諸島のハワイ島に生息していた。
またモロカイ島にも生息していたとする説もある。
ハワイ島とモロカイ島の間にはマウイ島、ラナイ島などの島があるが、
これらの島にも生息していたかどうかは不明。
森林沿いの草地に生息していた。飛翔力は退化していた。
欧米人のハワイ諸島進出により持ち込まれた家畜(主にブタ)やネコ、ネズミなどによる食害や生息環境の破壊が原因で、
1884年(1893年にも不確実な記録がある)に目撃されたのを最後として絶滅したものとされる。
■ハルパゴルニスワシ
かつてニュージーランドの南島に生息していた大型のワシである。
翼を広げた際の長さが3メートルにもなるという史上最大のワシであった。
しかし餌となるモアが絶滅したため、この鳥も絶滅した。
このワシは、モアなどの自身の体重の15倍もある大きくて飛ばない鳥を獲物としていた。
狩猟の際は、時速80キロメートル以上で攻撃をしかけ、一方の足の鉤爪を獲物の骨盤に引っ掛け、もう一方の足で頭や首を打って殺した。
大きなくちばしは、内臓に向かって体を引き裂くために使われ、獲物は失血から死に至った。
しかし、約1000年前にニュージーランドへ先住民族であるマオリ族がやってきて以後、
マオリ族もモアを狩猟した結果、モアなどの種は絶滅した。
そのためハルパゴルニスワシには餌がなくなり、西暦1500年ごろには絶滅したとされる。
余談だが著名な探検家であるチャールズ・ダグラスは、1870年代にランズボロー川の渓谷において2羽の巨大な猛禽類と遭遇し、
これらを撃って食べた、と彼の旅行記に記している。
これらの鳥はこのワシの最後の個体であった可能性があるが、これはありえない。
なぜなら、19世紀からおよそ500年前にはこのワシが種を維持するに適した餌はすでになく、
またpouakaiは生きている記憶が見られない鳥であるというマオリ族の強固な口伝があったからである。
なお、ダグラスの野生生物に関する観測は一般に信頼できるものであるため、翼長が3メートルまでは長くなかったとすると、
その鳥はアイルズ・ハリアーであったという可能性はある。
この鳥は最大のチュウヒ(小型の猛禽類)であり、一般には有史以前には絶滅したと思われている。
ただし、このチュウヒは食性がハルパゴルニスワシの様に特殊化していないため、
近年まで生存していた可能性はハルパゴルニスワシよりも高い。
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■ヒガシグリーンランドカリブー
北極圏のグリーンランド島東部に生息していた。
体色は灰色で、背中だけが濃い茶色だった。
つがい、単独、大集団で行動することはなく、6、7頭の群れで移動しながら暮らしていた。
食物は苔を好んだ。
グリーンランド先住民の狩りによってヒガシグリーンランドカリブーの数は減りつつあったが、それでも19世紀末には少数ながら数が維持されていた。
しかし、1899年にホッキョクオオカミがグリーンランドに進入してきたことが破局をもたらした。
食べ物の少ない氷原のことだから、ホッキョクオオカミはひたすらカリブーを追いかけた。
逃げ回っているうちに衰弱して死んだカリブーもいたほどで、約1年たった1900年にはヒガシグリーンランドカリブーは絶滅に追い込まれた。
■ニホンオオカミ
本州、四国、九州に生息していたオオカミの1亜種。
1905年(明治38年)1月23日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報、とされる。
なお、1月23日はアメリカ人の動物採集家マルコム・プレイフェア・アンダーソン(1879-1919)と同行していた金井清および猟師の石黒平次郎が、
地元の日本人猟師2名からオオカミの死体を8円50銭で購入した日付であり、
標本作製の際に金井が、厳冬のさなかに「腹は稍青みをおびて腐敗しかけて居る所からみて数日前に捕れたものらしい」ことに気がついているので、
正確な捕獲日は1月23日よりも数日前である。
剥製の作製は宿泊していた芳月楼(現在の皆花楼)の近くでおこなった。
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■ウミベミンク
北アメリカ大西洋岸のニューブランズウィック州からマサチューセッツ州にかけての海辺に生息していた。
ウミベミンクが絶滅したのは、その毛皮が人間に珍重されたからである。
先住民も毛皮と肉を目的としてミンク狩りをしていたが、ヨーロッパからの移住者はさらに熱心で、毛皮貿易の対象となった。
いくら泳ぎが上手くて魚介類が主食だからといっても、別に水中生活をしているわけではないから、陸上にいるところを犬を使って追い込んだり煙で燻したりすれば捕らえることができた。
個体数が減ってもおかまいなしに毛皮の需要に合わせて乱獲されたため、1880年、あるいは遅くとも1890年までには、ウミベミンクは絶滅した。
アメリカ東部からあまりに近すぎたせいか、ミンクの養殖が軌道に乗るまで生き延びることはできなかった。
■ニホンカワウソ
日本に生息していたカワウソの一種である。
全国に広く生息していたが、1979年以来目撃例がなく、
2012年絶滅種に指定された。愛媛県の県獣でもある。
かつては北海道、本州、四国、九州、壱岐島、対馬まで日本中に広く生息していた。
河川の中下流域、砂浜や磯などの沿岸部に単独で生息していた。
主に夜行性で、魚類、テナガエビ、カニ、カエルなどを食べていた。
1頭の行動域は十数kmにもおよび、この中に「泊まり場」と呼ばれる生活の拠点(岸辺近くの大木の根元の穴や岩の割れ目、茂みなど)を3、4か所もっていた。
縄張り宣言のために、定期的に岩や草むらの上など目立つ位置に糞をする習性があった。
ニホンカワウソの毛皮は保温力に優れているため、この毛皮を求めて大正から昭和初期にかけて乱獲が進み、生息数が激減した。
このため、1928年に捕獲禁止となっている。
第二次世界大戦後、香川県から愛媛県にかけての沿岸部、および高知県南西部の沿岸部にわずかに生息域を残すのみとなったが、
農薬や排水による水質悪化、高度経済成長期における周辺地域の開発、河川の護岸工事等により、生息数の減少に更なる拍車がかかった。
さらに、漁具による溺死や生簀の食害を防ぐための駆除も、大きな打撃となったと見られる(最後の個体群は当初猟師だけが知っていたもので、細々と密猟されていた)。
■オオスベトカゲ
カーボベルデ諸島の一部であるブランコ島とラソ島に生息していた。
もともとブランコ島もラソ島も地図にも載らないような小島でほとんど利用されていなかった。
しかし、1833年に囚人が30人流されてくると事情は変わった。
流刑者は自給自足生活を余儀なくされ、オオスベトカゲの肉がおいしいことに気づいたのである。
さらに腹の脂肪が傷薬としてよく効くことも分かった。
オオスベトカゲから採った傷薬は輸出されるまでになった。小さな島だけに住むトカゲが生き延びられるはずはなかった。
1940年に目撃されたのを最後に、オオスベトカゲは絶滅した。現在6体の標本が残っている。
■カリフォルニアハイイログマ
アメリカカリフォルニア州の南部に生息していた。
1848年のゴールドラッシュ以降、カリフォルニアに移住者が増えるにつれてカリフォルニアハイイログマは家畜を食べる害獣とされて駆除の対象とされた。
毛皮の利用価値もあってカリフォルニアハイイログマの数は激減し、1880年頃には平野部ではほとんどみられなくなった。
1922年トゥーレアリ郡の牧場で1頭のカリフォルニアハイイログマが子牛を襲って射殺された。
これが人間に撃ち取られた最後のものとされている。
1924年にセコイア国立公園で1頭のカリフォルニアハイイログマが数回目撃されたが、これが最後の記録となっている。
■ションブルクジカ
タイ南西部の湿原地帯に生息していた。
ションブルグジカが絶滅した要因は二つある。
一つは角を目的とした狩猟、もう一つは開発による湿原の消失である。
ションブルグジカの見事な角は、トロフィーとして申し分なかったし、漢方薬の材料にもなった。
湿原の消失が減少に拍車をかけた。
人口が増え技術が進歩するにつれて、それまで利用されなかった湿原でも水田として開発出来るようになれば、環境保護などという発想のなかった当時のことだからションブルグジカの生息地はたちまち減っていった。
森林で生きていこうとしても狩猟者はそこまで追いかけてきたし、角がじゃまになって住める森林も限られていた。
1938年にベルリン動物園で死んだのを最後に絶滅したとされるが、1931年、1935年という説もある。
以上です
ありがとうございました
もうかしたらパート2も挙げるかもしれないです